2013年03月16日

神戸市埋蔵文化財センター

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神戸市埋蔵文化財センターは市営地下鉄「西神中央駅」から歩いてすぐの西神中央公園内にあります。

神戸市内には五色塚古墳、大歳山遺跡その他多数の遺跡が見つかっており、それらを集中管理する施設の建設が求められ、1991年に開館した。

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エントランスホールで一際目立つのが、アケボノゾウ(アカシゾウ)。

西区伊川谷町で発見された年老いた雄の化石。

肩の高さ約1.8m。

大陸から日本に渡って、体が小さくなったと説明が書かれていました。

ホールには石棺・埴輪なども置かれていました。

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常設展示室には縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代の遺跡が展示。

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弥生時代の土器。

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特別収蔵庫に置かれた舞子浜遺跡の人骨。

古墳時代前期のもので推定年齢30〜60歳。

収蔵展示室には無数の遺跡が並べられガラス越しに見ることが出来る。

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平日は3Fの遺物整理室では職員が遺物を復元している様子を見ることが出来るとのこと。
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2012年12月31日

食パン消費bPのウラ側 

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総務省の「家計調査」で2011年の1世帯当たりの米の消費額がパンに追い越されたことを発表。

その中でも、食パンの消費額が日本一の都市は神戸市。

何故、神戸で消費量が高いかというと、外国のベーカリーが多く、パン文化が栄えていたということ以外に、大正7年に起きた米騒動が切っ掛け。

これを機に朝食として、神戸の食卓ではパン食が普及した。

つい先日も橋下徹大阪市長と週刊朝日の間で確執があったが、米騒動の場合は大阪朝日新聞のねつ造記事に踊らされた大衆の鈴木商店焼き打ち事件。

大正7年1月に1石15円だった米価が7月には30円という異常事態。

米の買い占めを行っている悪徳業者とされた鈴木商店は、当時外米を仕入れるなどして米価引き下げ努力をしていたが「焼け石に水」。

事実無根の記事が出たのは、鈴木商店を当時目の敵にしていた三井財閥と朝日の共同謀議の説もある。

この記事を執筆した記者は有罪判決となり社を追われた(白虹事件)。

「筆は凶器」ともなるので、心して執筆していただきたいものである。

しかし、神戸にパン文化が根付き、美味しいパンがいただけるのは、この悪徳記者の功罪かなと思うと複雑な心境です。

posted by swing at 15:13| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月20日

代役で扇の的を射た那須与一

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那須与市宗隆が、北向八幡神社を守護神として戦場にのぞみ、武運をまっとうした。

そのお礼にこの地を訪れ参詣、病のためこの地で死去し、大正10年頃彼を祀った那須神社が出来た。

県道22号線沿い東側は那須神社、道路を隔て西側には彼のお墓がある。

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那須家の初代当主は那須資隆、那須与一の父である。

与一は十一男の末弟で、10人の兄たちがいた。

もともと源氏方の武士だったが、資隆の代より平氏寄りの立場を取り、源頼朝が関東で挙兵した時、父と上の兄9人は平氏に味方。

10男の十郎為隆と11男の与一が源氏側に附いた。

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あの屋島の戦いでの名場面。

平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。

源義経は畠山重忠に命じたが辞退し、代わりに十郎為隆を指名した。

十郎為隆は与一を凌ぐほどの弓の名手だったが、戦傷が癒えないため、弟の与一を推薦。

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扇の的を射損じたら割腹自殺を覚悟して臨み、みごと扇の柄を射抜いた。

それを見た平氏の武者が舞を踊り、源義経の命によりこの武者をも射抜いた。

屋島の戦いでの活躍により、与一が家督を相続。

兄の十郎為隆は義経により追放され、那須七騎の千本氏の祖となる。

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頼朝の粛清を免れるため出家、源平合戦の死者を敵味方関係なく弔う旅を30年余り続けた。

冒頭のごとく、この地を訪れた時病に臥し村人達から下の世話になったので、「同じ思いはさせない」と言い残して亡くなったことから、このお墓に参れば「下の世話にならなくて済む」と言い伝えられている。

このお墓の建屋は比較的新しく、昔は野ざらしであった。










posted by swing at 18:59| 須磨区 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月28日

幻の福原京(昭和の時代まで―何と都は京都)

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平清盛は福原京の前に和田京を計画した。

場所は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域。

平地が少なく手狭なため、計画は挫折。

他に摂津国昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)にも候補地に上ったが、神戸市兵庫区雪御所町に福原京を設けることとした。

平清盛像の建っている平野交点前の道路を西へ進むと、湊山小学校がある。

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校門の北西部に雪見御所跡の碑があるが、これは明治39年に校庭から掘り出された。

その後も改築工事等の際、多量の土器や瓦、礎石・石垣が見つかっている。

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『山槐記』によると治承4年11月21日(1180年12月9日)条に安徳天皇の「本皇居」を「禅門(清盛)の家、雪御所の北なり」と記している。

したがって、この北側一帯を掘れば、遺跡の発見につながる可能性があるが、私有地のため叶わない。

平清盛は、高倉上皇と平家一門の反対を押し切って遷都を強行。

治承4年6月2日(1180年6月26日)、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。

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天皇の即位関連儀式として、即位の礼と大嘗祭は欠かせない。

この一連の儀式を合わせて御大典といい、これにより正式な遷都とみなされる。

したがって、驚いたことに日本の首都(戦前は帝都)は明治維新以降東京だと信じていたが、明治・大正・昭和天皇は一連の儀式を京都で行っているので、正式には京都ということになる。

現在の今上天皇以降は東京で行っているので、正式にも東京が首都となった。

安徳天皇は京都御所の紫宸殿で即位の儀を行った。

そして天皇は福原の新造内裏に行幸、新嘗祭を挙げた後、内乱の深刻化で京へ引き上げ、続いて清盛も鎮圧のため京へ向かうが、病没。

再び福原の地を踏むことはなかった。

以上の事から福原で御大典を行っていないという意味からも、歴史上「幻の福原京」と云わざるを得ない。

北陸の戦で敗れた平家は、木曾義仲に追われ都落ちします。

清盛亡き後、平宗盛らは、福原の内裏に火を放ち、 船で西国にのがれてゆきます。
posted by swing at 18:07| 兵庫区 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月26日

平重衡と大納言佐局

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平重衡は平清盛の五男。

治承4年(1180)12月平氏に従わない南都(奈良)の衆徒に対する見せしめとして興福寺・東大寺大仏殿などの寺院を焼討(南都焼討)を行ったときの平氏の大将。

寿永3年(1184)2月7日、源平合戦のときは副大将として東門生田の森を守った。

敗走し馬で海辺の船に逃れようとするが、源範頼軍の庄三郎家長に馬を矢で射られ、生け捕られてしまう。

松の根に腰をおろして無念の涙を流したが、現在はその松もなくなったが石碑が、山陽電鉄須磨寺駅の前にある。

鎌倉の源頼朝のもとへと護送され、その後伊豆の国狩野宗茂に預けられた。

南都焼討のときの恨みを持つ南都の衆徒が身柄引き渡しを要求し、重衡は奈良へと護送された。

重衡の妻、大納言佐殿(すけどの)は藤原伊実(これざね)の娘で五条大納言邦綱の養女。

安徳天皇の乳母として、壇ノ浦では安徳天皇と一緒にいた。

三種の神器のひとつ神鏡の入った唐櫃を持って海に身を投げようとしたが、源氏の矢で袴の裾を船端に射付けられる。

大納言佐殿は故郷へ帰り、姉の大夫三位に身を寄せ、日野にいた。

一方、奈良へと向かう重衡が、日野に妻がいるという噂を聞き、護衛の武士に逢いたい旨を告げる。

大納言佐殿の元へ訪れ、お互い泣きながら語らったあと、口にかかった髪の毛を少し歯で切り、形見として渡した。

大納言佐殿は余りにみすぼらしい夫の姿に浄衣を出して着替えてもらい、これまで着ていた服も形見とした。

なまじ逢ったことを悔いながら別れを告げ、日野を後にする。

木津川の土手に近くの寺から阿弥陀如来像を持ち出し、袖の括り紐を解いて、阿弥陀仏の手にかけ、その一方の端を重衡に持たせ、念仏を唱えながら首を切られた。

首はかって戦いの指揮を執った奈良の般若寺に釘づけにされた。

大納言佐殿は夫の遺骸を引き取り、貰い受けた首と共に火葬し、日野に墓を建てた。
posted by swing at 11:11| 須磨区 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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